2007年6月10日日曜日

ドラえもん「最終話」

いぁ~、泣いちゃったね、こりゃ。
「おじさん、1本取られた」って感じだね。

まぁ、きっかけは例の朝日新聞の記事なわけだが、この記事の中でも言われているように、作品への愛が感じられるというのは決して大袈裟ではないね。こういうのって、「オマージュ」って言うんだっけ?
少し前、「コミック」で検索をかけていたら、「ドラえもん-最終話」がヒットしていたが別に気にも留めていなかった。
何故なら、俺の中では「ドラえもん」の最終回は第6巻であり、当時、確か小5だった俺は、それこそボロ泣きだった。
繰り返して読みたく無くなるほど、「どブルー」な気持ちで、2、3日の間、過ごしていたと思う。

それがっ!小6になって、クラスの中で「ドラえもんの第7巻が出るらしい」、「俺はもう見た」などと噂話が飛び交った。
早速、俺は「ドラえもんの第7巻」を父に発注した(ねだった)。

そして入手した第7巻を読み終えてホっとしたのだが、同時に「そろそろ卒業かな」とも思った。

中学に入って部活(ギター)に夢中だったから、「コロコロコミックスが盛り上がっているらしい」のは知っていたが、俺の中の「ドラえもん」はいつしかフェードアウトしていた。

「最終話」の中で「夏休みごとの冒険」と皮肉?られていたが、長編映画のCMが始まると「もうそんな時期か」という、一種の風物詩化していた。「ドラえもん」は俺の生活の中で、そんなポジションになっていた。

藤子不二雄先生の分裂も、なんか「大人の事情」みたいなものが見えてしまった気がして少し引いてしまったのもある。

その後の、先生が亡くなったのも、「ドラえもん」の中の人たち(声優さんたち)が交代したのも、ニュースとして知っている。が、ショックというよりも情報のフォローと言う感じであった。

しかし、例の朝日新聞の記事で「ドラえもん」の新作はもう読めないんだ、という事実に気付かされてしまった(少し大袈裟か)。
だから、この事実こそが、この「最終話」の創作における原動力なんだ、ということが理解できた。
また、この点に対して小学館が理解を示していることも読み取れた。

この「最終話」は同人誌として出ている。ここのところ、俺は同人誌関連に興味を持っている。
きっかけは、ITmediaの、同人誌の表現の規制に関する記事だ。
これによると、「規制の強化はすべきではない」と朝日新聞の当時の社説で述べられていたそうである。
この事が、今回の「最終話」の記事の論調と、俺の中ではリンクした。

「最終話」の記事の論調は、著作権に配慮しつつも、創作活動を保護しよう、と俺は読んだ。
だが、その背後には、びみょ~に、国策としての「漫画・アニメ文化の保護育成」みたいのが透けて見えたのは、俺の色眼鏡のせいなのか?
「オタク文化を、知財としての保護育成」とは言っても、所詮、ビジネスライクな話であると、俺は理解している。
「ハードウェアの輸出からソフトウェアの輸出へのシフト」などと言う知識人がいるが、ビジネスとして成立しないのであれば、いわゆるオタク文化はいつまでもアングラ扱いであり、それは中華系Torrentサイトでも見ればすぐに解ることである。

「最終話」の記事を読んでて思ったのだが、石ノ森先生のところみたいにうまくできないものだろうか?
詳しいところは良く解らないが、要するに「原作:石ノ森先生」みたいな事が言いたい。
戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズの例と言うよりも、コミックスでの「原作:石ノ森先生」の方が、より、トリビュートっぽくなっていると、俺は思う。
(戦隊もの、仮面ライダーシリーズは、トリビュートというよりは「名義貸し」みたいに見える)

あいにく「プルート」は未読だが、手塚先生のトリビュートとしても評価されていると聞く。
藤子不二雄先生のところも、こんな感じでうまくできないものだろうか?と思う。
「原作:藤子不二雄」みたいにして、気合の入っている奴に創作させてみるというアプローチである。

見たところ、「最終話」は作画的に完成していないのではないかと思う。
ペン入れ(というのかな?)されていないページがあるからだ。
事情はわからないが、もしリスペクトやオマージュの気持ちがあるのならば、イベントに間に合わせることよりも、自己満足でも良いから納得の行く完成度のものを世に出すべきであると俺は思う。
それが同人誌であっても、というよりも、同人誌であるからこそ、それを追求すべきだと俺は思う。

だから、この「最終話」の完成した形を、キチンとした形で見てみたいと思う。

今回の騒動では、「最終話」の作者に対して、俺は素直に「ありがとう」と言いたい。

この話の内容で泣ける奴は、俺と同じ「大きなお友達」の年齢だと思う。

しばらくぶりにブログに投稿する気にさせてくれた「最終話」であった。