それは(狭義の)システムトレードの人の記事「採用試験で投資と賭博について質問してみたところ、応募者の回答が予想以上に面白いことに」だった。
この記事は、
経済成長に投資活動は必須である一方、投資と投機の境界はもともと曖昧である。
また、投機性の高い取引は賭博とほとんど変わらない。
一方、世界の多くの国において賭博は違法行為である。
この状況について、次のうち自分の考えに近いものを選び、思うところを述べよ。
(a) 賭博と投機には明確な違いがあり、賭博を法で規制するのは理にかなっている
(b) むしろ投機と投資の違いを明確にすべきであり、賭博と投機をともに違法とするべきである
(c) むしろ賭博を合法化すべきである
と言う内容の質問と、その答え(解答例と著者のコメント)についてである。
記事中には「唯一の正解は無い。求人への応募者の相場観を見るための質問」とある。
記事中のこの箇所まで読んだところで、自分でも少し考えてみた。
自分の中での「投資」と「投機」については「雰囲気」で分けていた。
つまり、
- 投機==博打(投機は博打のような経済活動である)
- 投資!=投機(投資は投機ではない経済活動である)
また、学術的でない一般的な書物でもこの様に書かれていると思う。
「経済活動」とは言うものの、最近では子供への教育も、金融商品や不動産などと同じレベルで「投資」と言われる。
(さすがに「子供への投資」とは聞くが「子供への投機」とは聞いたことがないなぁw)
では改めて「投資」と「投機」の違いについて考えてみると、上記の設問中にあるように、これらの境界は曖昧であると言える。
「手段」や「手法」の違いなのか、または「許容できるリスクの大きさ」の違いによるものなのか?
投資と投機は、同じルールが適応されるゲーム中では同じ手段で実行される。
また許容リスクの大きさは個々の問題であり、明確なしきい値は存在しない。
もしくはプレイヤーの持つ「射幸心の大きさ」wによる違いなのか?
そもそも、射幸心は定量化できないので、両者の違いの尺度には使えない。
。。。と、ここまでは、まぁ良い。
上記の設問は「投資」と「投機」と「賭博」の3つを横並びにして、さらに適法・違法の違いを議論の中に盛り込んでいる。
話しの次元数が増えたみたいで、ここでハタと考えてしまった。
この記事の中で著者は、幾つかの解答例から以下の視点でコメントしている。
- 実体経済との関係がある/ない
- 物質的な生産活動であるか否か
- 健全な市場として、明快なルールが公平に適応されること
- 偶然性が高い/低い
ひとつ面白かったのは、
(金融商品の取引は)たしかに物質的な生産はまったくしていませんが、娯楽としては機能しているからです。と言うコメントだ。
デイトレードであっても、それによってワクワクドキドキがあったのであれば、それに娯楽としての価値は確かに存在します。
物質的な生産でなければ価値がない、という主張をするのなら、映画監督や漫画家やスポーツ選手の活動も同様に否定されなければならず、それはさすがに無理があるでしょう。
この中の「娯楽」と言うキーワードが、この話しを考えるためのヒントとなっている。
つまり、法規制(一定のルール)によって「娯楽化」できるか否かが、分岐点のようだ。
- 明確なルールが定義できない → 規制の対象
- ルールがフェアに適応されない → 規制の対象
- 「娯楽」のレベルを超えている → 規制の対象
1については、偶然性が高いもの(公営ギャンブル、パチンコ、宝くじ等)は法規制下で許可される。
偶然性が「非常に」高いもの(サイコロ、野球賭博など)は法規制により禁止される。
2については、イカサマ、八百長、インサイダー取引などが、法規制により禁止される。
3については、射幸心を「過度に」煽るものは禁止され、過度とならないように「調整」を受けて法規制下で許可される。(金額、景品、懸賞、確率、期待値などへの制限)
著者は記事の終わりに
少なくない割合の人間は、失敗のリスクをとって果敢にチャレンジする本能を持っています。としているが、この「チャレンジ精神」への言い換えについては若干違和感を感じた。
(中略)
賭博が法で規制されている理由は、おそらく賭博に入れ込みすぎて人生を誤る愚か者を事前に救うためですが、そのために重要なチャレンジ精神まで規制するのでは損失のほうが大きいでしょう。
出典は忘れたが、
- 自分でリスクをコントロールできる → 投資
- 自分でリスクをコントロールできない → 投機
この場合のリスクは狭義の「失敗」と言う意味ではなく、広義の「不確定要素」と言う意味だと思う。
東日本大震災の直後、個人投資家がオプション取引にて億単位の追証を発生させたと言う。
ネットでは「レバレッジの効かせ過ぎ」と簡単に片付けられていたが、自分の予想を超えた「不確定要素」が発生した際の対処は考えていなかったのだろうか?
「プロと呼ばれる人はヘッジしているはずだ」「素人が調子こいているからだ」と言う意見もあった。
いずれにしても「娯楽」の範囲を超えた話しであり、さらに、娯楽の範囲を超えることを「チャレンジ」と言うのか?と思った。
著者は過去の科学技術の発展から「失敗のリスクをとって果敢にチャレンジする」と言っているが、サイエンスやエンジニアリングでは、成果や失敗も含めての不確定要素であり、そのための努力がチャレンジだと俺は思う。
ちょっと、重箱の隅っぽかったかな。
まぁでも、色々と考えを整理できたと思う。
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